「やさしい気持ちさんでておいで」Yちゃん(4さい)
アルキメデスは浴槽から溢れる水を見て「ユリイカ!」と叫んだ。私たちは日々見聞きする言葉に触れては「エフェメラ!」と叫ぶと...
エフェメラ!
エフェメラ!
2025年8月4日
アルキメデスは浴槽から溢れる水を見て「ユリイカ!」と叫んだ。私たちは日々見聞きする言葉に触れては「エフェメラ!」と叫ぶともなしに記録しようと思う。言葉は儚いものであるからこそ、今このときを確実に残してくれるから。
「複数の時間を作品に組み込めたら“いる”こととか、“生きている”こととか、“動く”ことが、いえるのではないかと──。」
舟越桂
迎が神保町の古書会館でやっている「中央線はしからはしまで古本フェスタ」に行くというので、わたしも!と、ついていくことに。そこで目にとまったのは、床にドドンと積み上げられた『みづゑ』のバックナンバー。こんなに何冊もまとめて売りにだされているのを見るのははじめてかもと興奮。わたしはアーティストたちの家やアトリエなどをみるのが好きなので(雑誌『Apartamento』なんてもう最高)、〈パリ、南フランス──画家たちのアトリエ〉という特集にひかれて一冊の『みづゑ』を購入。
すぐには気が付かなかったけど、舟越桂さんのアトリエものっているではないか!舟越さんを最初に知ったのは、須賀敦子さんの『コルシア書店の仲間たち』という文庫本だった気がする。「言葉が降りてくる」というタイトルの彫刻作品が使われた、印象深い表紙。首をちょっとだけ左に傾けて、前を向いている姿、人物彫刻でありながら、生きているのかいないのかよくわからない不思議な空気、それであり何かを訴えかけるようなその目が特徴的な作品だ。アトリエでのインタビューで舟越さんが語ったのがこのことば。
よく、中心をずらしたりしますね。たとえば、両肩のまんなかにある中心をほんの少しずらす。複雑に動かしていくときもある。作るのは静止した像なんですが、ある時間はそこにいて、それが次にはここへ移動した場合に、一つ目の時間のところに肩があって、次の時間のところに首をもってくるといったような動かしかた。複数の時間を作品に組み込めたら“いる”こととか、“生きている”こととか、“動く”ことが、いえるのではないかと──。
[みづゑ | 季刊 秋 1991 No.960/舟越 桂──複数の時間を作品に組み込んで]
過去、現在、未来。それぞれの時間が同時に存在しているから、不思議な感じがしたのかもしれない。“そのとき”だけを切りとるんじゃなくって、いくつもの時間で生きるそのひとを表現しようとしていたなんて、なんて面白いんだろう。この記事を読んで、もう一度実物の作品をみたくなった!
余談だが、舟越さんといえば、わたしのなかで思い出深いのは岩手県立美術館でみた桂さんの父・舟越保武さんの彫刻作品「ダミアン神父」。美術館ではじめた泣いたのが、この「ダミアン神父」だった。ダミアン神父はハンセン病患者が収容されているハワイのモロカイ島に宣教師として赴き、ついには自らもハンセン病になり、患者に神の言葉を伝えながら死んでしまう…そのダミアン神父の写真を目にした舟越保武さんが、彼の人間愛に気品と崇高なる美しさを感じとり、彫刻作品をつくりあげたのだそうだ。
「ダミアン神父」の展示室にはいったとたんに音が消えて、時が止まったような気がした。そのつぎに流れ込んできたのは、つめたくてこわい、なんだか嫌な感じ。ダミアン神父のあたたかな人間愛を感じて泣いたのではない。わたしは、なんだか気高さをまとった恐怖を感じて泣いた。(004)
エフェメラ/「一日だけの、短命な」を意味するギリシャ語「ephemera」。転じて、チラシやポスターなど一時的な情報伝達のために作成される紙ものなどを指す。短命だからこそ、時代を映すとされ、収集の対象になっている。