真ん中の日=183/365
水曜、0655によるとちょうど1年の真ん中の日らしい。 ボーイと一緒に小学校へ向かい、私はそのまま大学へ。この授業のクラ...
P.S.
ピーエス
2025年10月14日
月・祝。6月以来の三十年商店会。
ユカさん同様、私も日記を書いていることはあまり公言していないので秘密を共有する仲間との会合、という気分。初めての方々にもお会いでき、それはそれは楽しい会だった。
段取りしてくれたsaicoさん、レシーヘンさん、ありがとうございます!
素敵な場所を提供してくれたぴんぽいんとさん、ありがとうございます!
色んな話をした中で、saicoさんがヒートアップして、ぴんぽいんとさんが「戦闘民族だ!」と煽ったくだりがあった。家族への怒りの開示についてだったと思うが、私は(妻の)怒りのスイッチを押さないように振る舞うというのに対し、そこで自分を抑えているのだとしたらそれは違うのではないか、すべて開示しないのは誠実ではないのではないか、というような話だったと思う。
私としては、ぜんぶさらけ出せばいいってもんじゃない、とか、心穏やかに過ごすために多少自分を抑えていたとしてもそれはポジティブな努力であって、つまり愛だ、と思っている。
帰り道にちょっと考えてみたんだけど、saicoさんの言うことも愛だな、と思うに至る。怒りに限らず心底嘘のない状態を目指し、それでも一緒にいるという選択のポジティブさをより強固にする、ということかな。それはもう紛れもなく純度100%の愛だな。
で、こういった違いってなんだろう?と考えてみると、私は幼い頃から「本家の長男」という役回りで振る舞うことを強いられ、父は「親しき仲にも礼儀あり」というのが口癖のような人で、家族であろうと挨拶に始まり仁義礼節を重んじよ、というスタンスだった。さらに私は小学校4年生から高校3年までやっていたバレーボールにおいて中学から高校まではエースだった。これらに共通するのは自己の感情は二の次とし、家族やチームのために振る舞うということだと思うし、実際その様に務めてきた。
そういう姿勢が身に染み付いているのだな、と発見する。
で、皆にダメな部分をさらけ出せ!と散々言われたんだけど、それはネガティブな感情を言語化してここに書くってことなのか?と考えてみるが、これもまたエースであった自分からすると「自分がどんなにキツくても笑顔でチームを鼓舞し、スパイクを決める」というのが染み付いているので難しい…。やらかしエピソードは積極的に書いていくことにしよう。笑
あと、言ったり書いたりすると意識に定着してネガティブ思考になる、と思ってたりもする。とはいえ30年やってたらそういう時も来るだろうな。いまはほとんど悩みもなく、日々のタスクにフォーカスして過ごせているけど、そうはいかない時が必ず来る。その時のためにポジティブな精神を貯金しておこうと思う。
写真は集合写真未満なやつ。みんな何を指さしてるの?笑