LIFE IS HARDだけどHAPPY
なつかしい言葉を思い出した。2002年の映画か、中学1年生か。 小学校3.4年生の時、同じマンションの親友がいた。2人だ...

浮記
2025年10月26日
少し前にとこさんが言っていた生い立ちについて。自分語りしたくなる雨の日曜日なので記すことにする(子どもは朝寝中)。
わたしは小学校3年生まで千葉県浦安市に住んでいて市内で3度程引越をしている。最後に住んでいたのは団地に近いようなマンション棟でマンション内に子供会もあったからそれが最初の社会であり幼稚園→小学校もそのコミュニティと地続きになっていた。まだ未就学児のころThe末っ子気質で気分屋のくせ正義感が強かったわたしは、そのコミュニティの中で足並み揃えて行動することになんとなくストレスを感じていた。だったら既に幼稚園にかよう兄と兄の友人たちがミニ四駆やゲームに興じている中ひっそり混じって、たまに勝手なことして怒られながらも自由に振る舞う方が楽だなと感じていた。そりゃそうか?
あるとき、マンションにマレーシア人家族が引っ越してきた。子どもはわたしと同い年。当然そのコミュニティにはいることになる。しばらくして、大人たちのあいだに不穏な空気が流れているのをなんとなく子どものわたしも感じ取るようになった。でもその不穏な空気の原因は、どうやらわたしのようだった。
母がわたしの目線に合わせて手を握りながら伝えた言葉は漫画でよくあるシーンみたいにボカされているのに、部屋の中の情景や陽の具合は今でもやけに鮮明に脳裏にやきついている。要約すると、わたしがマレーシア人の子をはじめ“コミュニティ内の子たち皆をいじめている”という話になっている、ということだった。
たしかに気分で「いまはあそびたくない」だとか、正義感から「順番だからもう次の子に貸してあげたら?」と言うようなイヤな子どもだったから嫌な気持ちになる人がいたのだと思う。でもわたしは人種関係なしに誰か特定の人物にたいして嫌がらせをしたり、周りを巻き込んで圧力を加えたことは絶対にない。母は言わずとも理解してくれていたようだった。むしろ「ああ、この子集団でなじめないタイプだワ!」といった困りようだった。
それから母は近くのデニーズにママ友たちから呼び出され、何やら話し合いを重ねていた。
あんまり記憶にないが、いつのまにかキャンプに一緒に行く家族ぐるみの付き合いの子だけと仲良くするようになった。Mちゃん家。Mちゃんの母親はわたしの母より5歳近く年上で、子どもの目にも母を助けてくれるような大きな存在として映った。つまりコミュニティ内でわたし達家族が孤立しないようにと間に入って繋ぎ止めてくれているようだった。
幼稚園にはいればマンションコミュニティ以外の友人もたくさんできたし、相変わらず兄の集まりにも溶け込むことができて、わたしのメンタルは何ら問題なかった。むしろマンション外でもっと気の合う友人をみつけて活き活きしていた。
でも明らかにこの経験がわたしの価値観に大きな影響を与えている。それは世の中には「悪意ある敵」と「信じられる味方」の2つに別れるということ。また気の合わない人と付き合う必要はなく、自分がたいせつにしたいと思える人だけたいせつにすればよい、という考え。
引越しを経て川口市内の小学校に転校するとまるで世界が変わった。ここにきたら浦安市民はみんな泣いて逃げ出すのではないかと思うほど一人一人気がつよい。だからどちらかが嫌な思いをしたときに、誰かに告げ口をするのではなく「ちゃんと喧嘩」できるのだった。これはさすがに土地柄が関係しているとあるときから両親と笑い話になっている。転勤や新生活で移り住んできた人が多い埋立地の気質vs鋳物産業が盛んな江戸っ子に近い気質。どちらも一概にはいえないと解っちゃいるが、戸惑いながらも今までうまくいかなかった人間関係は環境のせいだったと思えるようになった。加えて小学校5年から道徳の授業でディベートをする学校?学年?だったので、相手の立場になって考える、話す訓練ができたと思う。どこの学校もやっているのかと思いきや、そうではないらしいからこの経験は貴重だった。まあ小学校でも活き活きすればするほど嫌がらせもたっくさん、いやってほど受けたが、気にしないメンタルの強さが生まれた。嫌がらせを受けた理由は2つあって、1つめは当時兄は誰もが振り向くほどの美少年でファンクラブができるくらいだったから。小さい頃から兄がビジュアルについて褒められている状況に立ち会っていたが小学校6年〜中学2年くらいが一番ピークだったと思う。わたしは兄の同級生である6年生の取り巻きたちから「代わりに渡してほしい手紙やお菓子」などをもらうのはバレンタイン以外も日常茶飯事で、変に目立つようになってしまった。それが「6年生から気に入られてる3年のヤツ」と認知され5年生から嫌がらせを受けるようになった。あ〜書いていてほっんとにくだらない!!
2つめは単純に自分がなまいきだったからだ。口が達者だったので外では「なんかなまいきなんだよ」と妬まれ、家では「へりくつばっかり!」と怒られていた。そのくせ何故か先生には気に入れられて学校のルールをやぶってもスルーされていたから、これは恩恵もあり過ぎて自分でも仕方ないとおもう。塾にかよいはじめたら小学校以上に気の合う友人ができたので、その「小学校なんてどうでもいいし」みたいな姿勢もなまいきに映ったのかもしれない。でもGALに憧れていた時期もかさなって痛くも痒くもなく、塾の友人とは喧嘩しながら仲良くやっていた。
それでも思い出すたびに胸がいたんだのはデニーズの会合だ。立ち会っていないから想像でしかないし、きっと当時自分にも悪いところはあったのだろうけれど、今でもよくあるママ友ドラマのように母ひとりを呼び出して加害者扱いする構図はわたしを人間不信にした。じっさいマレーシア人の子とは小学校にはいってからも2人で帰るほど仲がよかった。小学校にあがってマンションコミュニティでその子と仲良くしている人はひとりもいなかった。わたしは転校するまで仲のいい友人のひとりだった。敵とは、マレーシア人のママから何か聞いたわたしに関するエピソードを、きっと「なんかあの親子気に食わなーい」という理由で自分たちのエピソードと結びつけ、わたしの母を陥れたデニーズ会の中心人物ママとそれにしたがった他のママのことである。結局中立というか意味がわからなくなったのがマレーシア人親子で、味方とはMちゃん親子のことである。わたしの目線ではそう。
社会人になり30代になり中間管理職になって、ようやっとうまく人付き合いができるようになったと思う。人を敵か味方かで判断しないでどうやって関係を築くか、わたしは本当にここ数年でやっと学んだのだ。スポーツを通してチームで動く経験を全くもたなかったわたしにとって、それは日々の気遣いの交歓で生まれた訓練であった。結局「人からされた嫌なことは絶対他人にはしない」が隠れモットーになってしまい、それは関わる人数が増えるほど当たり前に不可能になりキャパオーバーで辞めてしまったが。(退職理由はコロナ禍もあってポジティブではあった。)
同時に中学高校時代のわたしの振る舞いは「、にしても」といまでも思い出しては辛くなる。つまり「敵か味方か」という判断基準をベースに「どうせ嫌われるのだから人に合わせることはしない」と決めた結果、かんたんに人を傷つけるようなことばかり発していたように思う。「自分が傷つく前に人を傷つけてやる」みたいな、無意識な自己防衛なのだろうけど、それにしても人に与えてしまった傷が多い。もちろんそれを今謝りにまわったとて、無意味どころか逆効果なのは判っているが、自分は「他人から言われた言葉」より「自分が言ってしまった言葉」を思い出してはヒィ〜となっていることが多い。一歩引いてみると、ただの自意識過剰で片付く現象でもある。でもそういうのが重なって結局10代後半から21歳くらいまで幻聴に苛まれることになり、精神科の入退院を繰り返した。いまでもなるべく嘘をつきたくないと異常に固執したり、それがナイフだと自覚していながら100%嘘のない鋭利な言葉を発してしまうのは結局自分の心を保つため。わたしのインナーチャイルドを肯定するためな気がする。(いちおう病気は27歳くらいで寛解しており、それから断薬にも成功している)
これがわたしの生い立ち。恨み節のようになってしまい気持ちのいい話ではないけれどわたしからみた事実。そして子どもが生まれて社会との距離ができた今、またこの敵か味方か思想にもどっている気がして面食らっている。そしてこの経験をどう子育てに活かせるかもわからないでいる。でもこれがわたしの生きる道~。ってPUFFYもすきだけど、数年前に観た映画『それでも私は生きていく』、とっても良かった。原題は『ある晴れた朝』という意。原題の方が合っている。この映画を観たときの感想にこう書いてあった。
“「それでも私は生きていく」なんて決めつけた邦題はやめておくれよ、と鑑賞中思ったが、どこか、へなへなになった状態から立ち上がらせてくれるような力を持ち合わせいる映画でもあった。それは希望とも違くて、悪夢から目覚めた時に思わず飲む水のようなナチュラルな感情に近い。自伝にun beau matinとつけた父ゲオルクの生き様をみたからだと思う。それは冒頭のひいばあの言葉にも繋がるような。だからわたしも自分を第一に生きる時を終えたとしても、またもや自分を第一に生きなければならない時を迎えても、自分や他人を哀れまないて誇り高く存在していたいと思った。たとえ肉体がどうなっても魂は燃えている人たちみたいに。”
正直いうと、忘れていた。でも思い出した途端、ほんとにそうだよなと思えるようになった。

埼玉県さいたま市/36歳