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    浮記

    浮記

    めぐり、ためいき、とけあい

    今日は保育園に預けずたまには土日以外で子どもと1日過ごすDAYの予定が、昨日の朝寝違えて?痛めた首がやばそうなので整体の予約をとらせてもらった。仕事中お灸を両肩と三陰交に貼り仙骨あたりにカイロ、夜は湯船につかったけど今朝になっても身体が悲鳴をあげていた。そんな時は大体膝を立てて寝てしまっていて歪み、時すでに遅し。という感じなので久しぶりだからいいかと予約。

    わたしはなんでいつもこんな罪悪感に苛まれているのだろう?昨日夫にまかせて帰宅してから聞いたエピソードがひっかかっているからかもしれない。子どもがジィジの前で声をおしころして泣いた話。声をおしころして、きれいな涙をぽろぽろこぼして泣いたのはこれで2回目。成長の一環らしいけれど、イヤイヤ期に片足つっこんでいたり、ママにだけイヤイヤしたり、明らかにいままでとは違う彼なりの主張を不器用なカタチで表現しはじめているから、もう少し頭を使ってこころを動かして接しなきゃと反省したのだ。

    ある時からかんたんに自然な笑顔をつくれるようになったけれど、大学中退したあと復帰明けの職場で、店長に1分に1回「笑顔!」とおこられていた。接客業だから割り箸で笑顔の練習もさせられた。「笑顔!」て言われるたび、律儀に「ニッ」て笑顔をつくっていたからか、店長はわたしの面倒をみてれて人間に戻してくれた。そんなわけで自分でいうのもなんだけど、笑顔がしみついているけど、頭どころかこころが動いてなくてロボットのように無になることがある。これは疲労なのか、むしろ人間だから当たり前なのか。子どもは真逆のこころがネジみたいな生き物だから、もっと毛穴中から空気を吸って脳みそに酸素を行きとどかせて子どもと同じような体温でいたいと思う。

     

    なにかしら予定がある日、8:30に保育園に預けて10時までのあいだ、どこで時間を潰すかが最近の悩み。一度家に帰るのはおかしい立地で、意外とお店ってぜんぶ10時からだ。むかしは朝っぱらからカラオケにいったり、ファミレスだってやってた気がするんだけど気のせい?コロナ禍で営業時間をコロコロ変えさせられた結果、コアタイム中心の潔い営業時間の店が増えた気がする。

    そうしていつもスタバに行くのだけど朝のスタバはとりわけ居心地悪いから、やめて少し歩いてパン屋のモーニングに行ってみたら5種類くらいあったモーニングが1択になっていた。みたりゃわかるPOPを前に思わず「いまこれだけですか?」と聞いてしまう。いやな客だけど、動揺を口にだしたかっただけなのだ。だってついこの間まであったじゃんか。潔さについていけない。

     

    またロボットの無でカプチーノを飲んでいたけど、今日は朝に日記書いちゃおう!と書き始めたら体に血がかよってきた。単純に手をグーパーグーパーとやるだけで血は巡るわけなので、指をうごかすだけで覚めていく気はする。だけど昨晩のことを思い出してボッと一気に体温があがった気がした。それはサイコさんとサキさんから届いたレターパック。商店会でいただけるはずだったステッカーを渡しそびれたから送るねと事前に連絡はいただいていたのだけど。夫から「サイコさんから本がとどいてるよ」と言われ「あーちがう、それステッカー!」と答えたが、よくみたら本と書いてある。封をあけたら涙がでそうになった。子どもに電車の絵本。しかも欲しいと思っていたやつ。サイコさんのお子さんが読んでたやつでは?!と子どもにみせた。いま、はやぶさ・こまち・山手線がだいすきなので、表紙を見るなり歓喜のおたけび。

    合間にお手紙を読んで、うまく飲み込めないまま、子どもに「やっぱりそうだって!よかったね」と伝えた。うれしすぎて、感情がおいつかなかった。まず、わたしは絵本のおさがりをもらうのがだいすきだ。会社の元先輩が大量にもってきてくれたとき、「これは正しい!」とうれしくなった。さまざまな循環がある中で、もちろん古本屋にだしたり、寄付することは素晴らしいが、誰かから誰かへプレゼントのかたちで贈られることが、わたしのなかで「正しくて、美しい」うまく説明できないけれど衣類や雑貨以上に巡りをかんじるのだった。しばらくして子どもは大きなため息をついた。さいきん圧倒的に格好いいものを目の当たりにすると、大きなため息をつく。わたしも敵わんな〜!っていう最大級の褒め言葉でたたえたくなる圧倒的格好良さに対峙すると笑っちゃうくせがあるので、子どものため息に共鳴した。ふたりで大きなため息をついて、寝ようか、となり、ベッドにいく。ここ数日、子どもはスーッと靜かに眠りに就く。だいたい絵本や車を片手にもったまま。その10分20分のあいだ、ただただ横たわるだけなのだが、たぶん折り紙の裏を使ったふたりからのお手紙の言葉を思い出す。その言葉から抽出されたものが、ぽたぽたとわたしの中に落ちてたまっていく。それは何故か原油みたいに黒くてねっとりしていて重たい。口元は笑っていた気がする。ついこの間幼少期のことを綴ってみたけど、わたしが飢えていて求めているのは“歓迎”なのかもしれない。RAMの公開収録の中で、島崎さんが“コミュニティとサークルの違い”について触れていた。わたしは言葉の意味を深く考えずに今まで使っていた気がするが、コミュニティはインタラクティブ性がある、つまり交わりがあるが、サークルはただ円をつくるだけと言っていて、なるほどとなった。そしてわたしは“コミュニティに歓迎されない”というトラウマがあるから、コミュニティを避けるようになったのだと気づく。だからいざ自分から飛び込んでみても、“自分なんか歓迎されるはずがない”、“歓迎されたとしてもいつかは排除される”という恐怖やあきらめが働いていたのかもしれない。それが、あの手紙からふたりが思いっきり手を広げてハグの準備をしてくれているのがイメージできたのだ。そりゃうれしい。というか救われる。黒くてねっとりした重たいものが、わたしのインナーチャイルドを包み込んでいき溶けあっていくような。

    子どもが寝たので、リビングに戻りパソコンにステッカーを貼った。こういうのはとっておかずジャンジャカ使っていくタイプ。Appleユーザーがやるようなステッカー使いはできず、わたしの混沌とした脳内を現しているようなPC。

    果物にはってあるシールもすきなのよ。だいたいキラキラしていて。シールに対しては深い思い入れがあるのだ。ちなみに鏡とかにもシール、ステッカーめちゃくちゃ貼るタイプ。夫はぜったい貼らないから、性格でるよなあ。わたしの父は箪笥や冷蔵庫もちろんPCにもゴテゴテステッカーだから血なのだろうか。

    サイコさん、サキさん、しつこいけど、書く場所をくださってありがとうございます。三十年商店のみなさんも、商店以外で読んでくださる方も、いつもありがとうございます。サキさんからいただいたお茶は、この喜びも思い出せないくらいさみしい夜が来たらいただこうかなと思う。そういう日ってどうやったってぜったいあるから。

    書き手

    migiwa

    migiwa

    埼玉県さいたま市/36歳

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