暮らし下手が学んだ一人暮らしについて
私は暮らしが下手だ。 料理は好きだが、要領が悪く、散らかす 掃除は溜め込むし、洗濯物も溜め込む  ...

もしもし五島列島
モシモシゴトウレットウ
2025年12月31日

滝行に行ったらプリキュアの変身みたいに世界がパッと変わると思っていた。
正直なにも変わってない。
ただただ寒くて、体ってこんなに震えるんだという経験をした。
辛すぎてもう二度と生きたくないのでなにか必死に気づきを得たふうにしたいけど、変わらないことを学んだ。
この滝行の経験も含めて、どんな状況も後々のネタでしかない。
何も変わってないかもだけど、多分変わった。
自分を見つめる時間と、自分のことを責めなくてはいいけど、しっかり、立ち止まって、振り返る時間が必要。
けど、滝行に行っても何も変わらないしわからないからこそ、昔の人は何度も何度も滝行に行ったのだろうな。
だから、滝行にいかずとも、日常で振り返る時間をとったり、今を見つめ、全ての物事に感謝することをしていこう。
滝行に行って一番学んだのは、自分が今生きているのも、こうやって行動できているのも全て身の回りの事象や支えてくれるものや人のおかげ。全ての儀式が感謝で始まり、感謝で終わる滝行。
「滝行に行ってやったぞー!」と思っていたけど、滝行をさせていただいているのだ。
振り返り
「滝行」という非日常を終え、家に着いて3時間。体は冷え切っているのに、心は不思議と穏やかでふわふわしていた。お腹はペコペコだったはずなのに、カツ丼は食べられず、家でおじやと鯖缶、そしてチョコレートを大量に食べた。
想像を超えた「非日常」
「ポップなホームページだったから優しいはず」という予想は裏切られました。いくらホームページがポップでも、滝行は滝行。気温1度。水温も冷たい。そして、滝に直行すると思っていた私は甘かった。
滝行までの約3時間。お寺での宣言、お経、そしてお百度参り(おひゃくどまいり)。般若心経を唱えながら、ただひたすら同じ場所を百回巡る。素足で。
お百度参りにはこのような意味があるらしい。
足の痛みと寒さの中、意識が飛んでしまいそうなところで、食べ放題の焼肉やいきたかったけど忘れていた納豆専門店のことを思い出し、即座にメモしたいけど、まだ80回以上ありそう。と思っていたら、単純な言葉を言うことすら、足を動かすことすらできなくて、「今この瞬間」以外の雑念を、いかに抱えまくって生きているかを実感したし、一点集中の大事さを学びました。
マルチタスクってマジでなんなんだ・・・・!幻想・・・?
コスパタイパもわからん・・・・。
滝行は、他の人がやっている時、同じ言葉を唱えて、応援するんです。
滝に打たれた時、私はあまりの威力に、言葉を唱えるどころか息ができない。そして、悲しいわけではないのに、自然と涙が止まらなくなった。だけど、この応援の声だけは不思議と聞こえて、マラソンランナーの気持ちになりました。
涙も、「感情をこれでしか流すことができない時」に涙は出るから、普段泣き虫な自分をしょうもないと思わなくていいし、これは悲しいとかではなくただ、感情を水として流しているにすぎないことなんだなと感じました。
そして、最大の試練は、滝行後の着替えでした。女は私一人。手は震え、体も洗濯機のように止まらない。ズボンすら履けない。
着替えまで含めて私は滝行だったなと思って。
もし誰かに頼れたら確実に頼っていた。しかし、頼れない状況に置かれたことで、「自分のことは自分でやり切る」着替えの試練を乗り越えた経験が一番大きかったし、これを経験したら、今年の冬のお風呂上がりが全く怖くなくなったと思ったけど、暖房+こたつの部屋から出た直後の風呂はやっぱり寒いぞ。しょうがない。
🙏 感謝に始まり、感謝に終わる
山登り、滝に打たれること、着替え、そして下山。全てが苦しかったけれど、無事に終われたのは、その場所、空間、そして共にいてくれた人々のおかげ。
「終わった!やった!」で終わろうとした私に、最後に必要なのは「お礼の儀式」でした。
本当に全て感謝から始まり感謝で終わる。
私はこれまで「全部自分でやってやった」と思っていたけれど、自力に見えることも、決して自力だけではないのだと痛感しました。
そして、最も大きな学びは、「反省」についてです。
滝行でこれまでの身勝手な行動を反省しようと思っていたのに、終わった後、その反省が流されて、何も考えられなくなった。
私が今まで成長してこなかったのは、反省ばっかりに時間を取ってたんだからだなって思ったのがすごい大きくて。
反省に時間を割くのではなく、今この瞬間のこと、これからすべきことだけに集中する。朝まで生テレビの賢い人たちが議論しても結論が出ないように、私が考えてもどうしようもないことに時間を使うのはやめる。
「私は考えなくていい」
頭のいい人たちが考えてくれている。考える暇があるなら、歴史を見るか、今を生きるか、息を吸う。
苦しみを経験することで日々を慈しむ気持ちが生まれるのはわかる。けれど、もう自分から苦しみに行く必要はない。この滝行で、私はすでに「慈しむ」という境地に達したのだから。
これからは、「弱いまま」の自分を認め、「わーい!」という楽しさを追い求めて生きる。
ありがとう、滝行。そして、ありがとう、お風呂。ありがとう、私の平凡で緩やかな日常。