ロケットストーブ
庭に「ロケットストーブ」というものがある。3年前に私が作った。ちゃんとした薪でなくても強い火力が得られるコンロみたいなも...

風早草子
カザハヤソウシ
2026年2月16日
明日が朝からなので、本日は金沢へ移動して前日入り。北陸新幹線かがやきでGO。気持ちを新たに仕事はまた次のステージへ。

車中で例の如くPCは立ち上げて色々やるものの、そこまでやらないといけないこともない。と思って日記を読んでいたらsaicoさんから問いが。なるほど。車中ヒマだし書いてみましょうか?私の引越し遍歴。
転勤族の子どもとして育ち、自身も転勤族になったので多めですね。
生まれたのは京都の桂というところだけど、物心着く前に父は名古屋に転勤。そして名古屋の社宅から父が買った団地に引っ越したのが3歳の頃。私の記憶はこの名古屋市名東区猪越の団地から始まっている。続いて小学2年の夏に父が大阪に飛ばされて、私も吹田市の千里ニュータウンど真ん中の巨大小学校へ。でもここは、何というかとても楽しいところだった。広い丘陵地に見渡す限り団地しかない学区。私の父の会社の社宅はD34というナンバーが振られた団地だった。親友の川島君と戸ヶ崎君はD43。誰のうちに遊びに行くのでも「A13の401」とかで辿り付けた。友達はみんな公平、公正ないい奴ばかりで私たちは毎日、ハンドベースやドッチボール、そして秘密基地ごっこをして外で遊び回っていた。阪急千里線はいち早く自動改札が導入されており最初はびっくりしたものだ。そして私は友達から大阪弁と大阪流の笑いの取り方を教わった。みな小学2年生から、笑いを取ることに命をかけており、給食の時間が渾身のギャグの披露タイムだった。瓶牛乳を飲んでいる友達にギャグをかまして、牛乳を霧のように噴き出させたら大成功。(笑)
ただ私の楽しい大阪生活は半年で終わってしまった。ロッキード事件の勃発で、大阪に飛ばされていた父が東京に召喚されたのだ。不本意な転勤で干された形だった父にはいいことだったと思うが、私は残念だった。
東京の社宅は大田区の池上というところ。隙間なく家が立ち並び、私が大好きな虫取りができるような草原はどこにもなかった。東京ってつまらんところだな、と思ったものの、池上は大田区の中では山の手で小学校もいい友達はたくさんできた。そして私は少年野球チームに入り、野球を覚えたりした。そしてこの時に野鳥の会に入り、探鳥会というものに参加するようになった。
ただこの社宅にいたのも2年半で、父が新たなマンションを買ったため、小学5年の夏休みに同じ大田区内の大森に引っ越した。私は4つ目の小学校だ。これが私がそれまで経験してきた学校の中でもダントツにひどいところで、当時ですら「今時?」という感じの餓鬼大将みたいなのがのさばっていて、イジメとかイビリとか仲間外れとか、そういうものが横行している学校だった。地域の民度が低い、というのは、こういうことを言うのか、と小学生ながら学んだ気がする。中学生になってからもクラスの不良軍団と長期間にわたって揉めたりして、ろくな思い出がない。近くに野鳥観察に絶好の埋立地の原野があり、生涯の鳥仲間になる友人に出会えたのは収穫だが、大森という町には今も何の愛もない。(笑)
大森には高校卒業後、予備校に通った浪人時代まで暮らしたが、私が京都の大学に進学が決まったのと同じタイミングで偶然父がまた大阪に転勤となった。今度は飛ばされたわけではなく、偉い人としての赴任だ。授業料の高い私大だったこともあり、私も仕送りもらって一人暮らし、と堂々と主張しにくい空気があり、入学当初はしばらく千里の社宅に両親と暮らして、京都南部田辺町のキャンパスまで通っていた。この千里への引っ越しが私の6回目、親と一緒の最後の引越しだった。
まあしかし、千里から田辺町までは2時間以上かかりさすがにそれは不毛できつい。ということで、親に頭を下げて多少の仕送りをもらって宇治に安い下宿を見つけて、私は晴れて一人暮らしを手に入れた。3回生になりキャンパスが変わるのを機に京都市内左京区一乗寺に引越し、就職すると、最初の勤務地札幌へ。以降、東京、広島と転勤した。広島では最初に入った古い世帯寮で猫ノミ発生騒動というのが勃発し、寮が急遽廃寮になることが決まり、借り上げアパートに引っ越さないといけない、という余計な引越しまで経験した。まあでもそのアパート時代に妻と結婚したので、そこが私たちの記念すべきスタートの場所となった。その後、また東京に転勤し広尾の社宅で5年間渋谷区民をした後、まさかの再度の広島勤務となり、そこでまさかの双子誕生、人生詰み、となるわけだ。ここまでで14回目の引越しか。次の東京転勤は、子どもたちの区切りと、7人で住む家をじっくり探すために、しばらくは私一人の単身赴任となった。世田谷東松原のレオパレスに約10ヶ月。そしてようやく見つけた葉山の借家に引っ越して家族も広島から合流。そして葉山に土地を見つけて家を建てて17回目の引越しで今に至る。もう引っ越しはお腹いっぱいだ。(笑)
引っ越しって、やはりなんだかんだと大変だ。私のように引っ越し経験が豊富であっても毎回とても憂鬱で面倒だ。荷造りは金を払っても「お任せパック」に頼るに限る。自分で段ボールに詰めようなんて考えてはいけない。それでなくてもさまざまな金額的負担も大きい。家の状況で毎回不要になるもの、新たに買わねばならないものなどが多々出る。会社の社宅は基本エアコンもガス台もないため、毎回自身で買って付けなければならない。しかし、そこから刈り上げの賃貸に移れば、今時、ガス台もエアコンもみな付いている。そしてガスは地域によってカロリーが違ったりするため、前任地から持ち込んだガス台は業者に調整してもらわないと使えないこともある。こういうのも一人暮らしだと日程決めたりするのが大変だ。また広島で私が最初に単身で入った古い世帯寮は、なんと台所にお湯が出なかった。冷たい水のみ。さすがに油汚れの鍋や皿を水で洗うのは嫌だ。で、まだそんなものってあるんだ、という瞬間湯沸かし器を買って設置した。数万円はかかったと思う。ところがその寮はしばらくして廃寮になり退去することに。で、会社からは現場復帰が決まりだから、瞬間湯沸かし器は自分で自費で撤去するように、と言われた。さすがに私も激怒してそれは跳ね付けたけど。
他にも、広島で独身時代に買った電子レンジ、結婚後も捨てずに残してあって、東京転勤で私が家族より一月くらい先行して行く際に便利だろうと持っていった。しかしコンセントに差してスイッチを入れても作動しない。まさかの西日本専用の60Hzオンリー仕様!
この50Hz、60Hz問題は熱帯魚の水槽のエーハイムフィルターについてもヘッドを交換してもらったり、手がかかった。というか、熱帯魚水槽を引越しで運ぶのも、一大プロジェクトでもう懲り懲り。(笑)水槽の中の魚を全て網で掬って、バケツで馴染みの熱帯魚店まで持っていって、丈夫なビニール袋に入れて酸素を充填してもらう。あとは夏ならば暑くなりすぎないように保冷剤を入れてダンボール詰め。現地到着まで生きているかは、あとは運だ。ただこれまで大きな失敗はなかったかな。水槽は水を抜いたら、低床とか水草はそのままでパッキング。引越し先に着いたら速やかに設置して水を入れてフィルターを回す。運が良ければある程度の水草はそのまま息を吹き返す。まあでもただでさえ、子ども5人、人間のケアだけでも大変なのにさらに魚の面倒まで気を配るのはかなりの無理ゲーでもうこれ以上はやりたくない。(笑)
私の引越し遍歴は以上でした。長っ。

書いてるうちに金沢着。新しい金沢駅は初めてだけど、なんかすごい。
かきぬまさん、ランニングデビューおめでとうございます♪カッコいいシューズですね。新しいことを始めるって、ワクワクしますよね。

神奈川県葉山町/58歳