a family photo
すてきな家族写真が撮れた。ソレも一緒にじゃれながら、脚を噛んだりいたずらしてくる仔犬に甘噛みをして時々怒ってみたり。弱肉...

Sophy's philosophy
ソフィーズフィロソフィ
2026年2月28日
イシュミナと耳より相関図を聞いていろいろと考えを巡らせる土曜日。
まず、耳よりから、ラザニアは何層か?という問いにクスッと頬がほころんだ。わたしが作るラザニアは、だいたい3-4層。毛柴さんが言ってた7層のラザニアは、ミルフィーユ感があって繊細な味っぽい。ラグーと呼ぶ牛肉のトマト煮込みは、だいたい1kgくらいの牛ミンチでたっぷりとこしらえ、さらにその横で750mlくらいの牛乳とバターと小麦粉でベシャメルソースをたっぷり作る。パルメッジャーノをたっぷり削ってかけるし、ラザニアは牛のおかげで頂ける代物だ。
ちなみに、わたしはイタリア料理のなかで、ボッタルガパスタと並んでラザニアが大好物。ボッタルガは削るだけであの旨みという、最高の手抜き料理で満たされる。一方のラザニアは、仕込みからかなりの時間と労力をかけて煮込み、最後は40分くらいオーブンにまで入れるという、マルチタスク度と手塩にかける工数が半端ないことを知っているので、自分が作ったときでも、誰かが作ってくれたときでも、本当にありがたい料理だという実感が湧くのだ。
そしてティラミスの話も出てきてうれしい。ティラミスとパンナコッタも自分でたまに作るけれど、何よりレストランのシメのデザートで、クレームブリュレと三つ巴の中から選ぶ時の光悦感といったらたまらない。イタリアだとティラミスはどこに行っても、ほとんどメニューにあるしハズレがないので安心感のある選択肢だ。ティラミスー↑という上げ調子で発音するとイタリア感が出る。Pull me up… という情熱的な名前なのよ。
風早草子さん、娘さんがイタリア入りされているんですね!北イタリアも日中は暖かくなって過ごしやすいです。トリノがあるピエモンテ州は郷土料理がとても美味しくて、わたしがいるロンバルディア州にも数少ないピエモンテーゼレストランがあり、そちらに行く時はテンション上がります。
そしてイシュミナは「学び」についての考察(この回は表面的ではなく「考察」していましたね)がとても面白くて3回聴いた。わたしは、学びという言葉に違和感は感じないんだけれど、確かに名詞で呼ぶと途端に輪郭を帯びて数えなきゃ、って気持ちになるのに気づいた。外国語でいう、冠詞をつけたくなる感じ?
わたしは「学び」っていう言い方をあまりしない気もするけれど、何かに文字数制限のあるコメントをするときに「学びになりました!」と納めようとしたくなるときはある。どちらかと言うと、学びたい。学んだ。学んで欲しい。学ぶっていう動詞の変格の方を使うことが多いかな。漢字で学ぶを大量に書くと、なんか読めなくなってくる。世の中ではガクのほうが多用されていて、まなぶ、は平仮名で書きたいかも。もっと堅苦しくない、楽しみながら続けることだと自分では感じている。
そう言えば、まなぶ、はイタリア語だとimparare に近くて、 studiare (勉強する)とはまた違う感覚がある。英語だとlearnで、study とは違う、みたいな。習うとかに近いイメージがあって、何か自分のなかにある新しい自分に気づくこと。勉強との対比にある、一生かけて身につけていくことかなあ、そんな感触がイシュミナを聴きながら芽生えたのだった。
哲学論をされている宮野先生がいつか、学ぶとは、自分が変わることだ。と言っていた。外的要因に触れることで、自分の内的要因が何かしら形をかえる。そういうことなのかなって、いまは思ってる。宮野先生のお話を何度か聞きながらメモを取ったのを携帯に残していた。学びについて深く考えた機会だったので、こちらも備忘録として載せておきたい。
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学ぶとは、新たな自分を発見すること。
学びは静かで孤独、自分に向き合うもの。
勉強は飽きる。勉強は他者との付き合い。縛られる。でも学びは飽きない。自分との付き合いだから。自由になり、無になること。
学ぶとは、こうべをたれること。どんなに偉くなろうとも。深く内省すること。
学びは知識を得るとか、何かがうまくいくようになることではなく、自分を知ること。好きなこと、嫌いなこと、関心がないことについて、なぜ好きか、嫌いか、関心がないかを考える、ということ。
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ソフィがわたしの机に置いていった絵。カラフルな彩りが彼女のデザインの特徴、白をうまく残して引き算してるところが好き。


イタリア・ベルガモ/46歳