いくつ産むか?
この春は忙しくてあまり観察できていないの...
風早草子
カザハヤソウシ
2025年3月12日
腰は薬のおかげで何とか大丈夫。動ける。いつも通り5時に起きて台所を片付けて洗濯。野球部の朝練がある双子を6時に起こして練習後に食べるおにぎりを作って持たせる。無理をしていないと言えば嘘になるけど、無理が我が家の通常なので仕方ない。7時前におにぎりを持って双子は自転車で出かけていった。あの時、0歳だった二人が14歳。平和な朝だ。
午前中、副業の方の定例会。こちらで扱っているテーマは実は「防災」だったりする。毎週火曜のこの会は、それぞれの進捗状況を順番に簡潔に話して共有するだけだが、311も重なったので、三番目に報告が回ってきた私は、少しあの日の自分の体験と思いを付け加えた。すると、続くメンバーも自身の体験をそれぞれ付加して話し始めて、さながら「あの日わたしは」を打ち明ける会になった。WEB業務に関わる外部プロのメンバーも多く、私は大半が会ったこともないし、WEB会議で顔出ししているのも見たことがない「知らない人たち」なのだが、それぞれに色々なストーリーや思いがあって興味深かった。
震災をきっかけに映画から報道に仕事を変えた人、イタリアレストランでランチ中に地震に遭い、以来、毎月11日はその店でランチを食べ続けている人、地震後1週間で現地に入り半年間ボランティアをしていた人などなど。大阪にいた人も長時間ビルが揺れ続けて怖かったと言っていた。
当時広島にいた私は、揺れも被害も停電もない中で、唖然としてテレビ画面を見続けていた。東京に出張していた部下の安全を確認し、本部の応援に入る指示をしたが、それから大きく変わっていくだろう自分の業務への影響を図りかねていた。そしてテレビ画面に次々と映し出される映像は、想像を絶する光景ばかりだった。
数日して広島にも応援要請が来た。仙台で応援チームの指揮を取る役割で指名は私だった。自分も行って何かをしたいという思いは非常に強かったし、混乱する現場に強い私は適任だったと思う。だが、私は断った。
まだ首も座っていない双子を含む5人の子どもを妻に任せて3週間も家を空けることは無理が過ぎる。結局、私ではなく私の上司が仙台に行き、留守中は私が上司に代わり広島の指揮を取った。上司は子どもがいない夫婦で広島に単身赴任だったので、それで妥当だったとは思っている。ただ、報道という仕事に携わる中で、あの災害時の応援要請を拒否するのは、その後のキャリア、自身の経験などに照らして、厳しい判断ではあった。しかし、双子が生まれてくる、という現実を受け止めるにあたって、それまでの「仕事が何より大事」という生き方を捨てる覚悟を決めていたので、迷いはなかった気がする。その覚悟は今も変わっていないと思う。
神奈川県葉山町/57歳