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    風早草子

    風早草子
    カザハヤソウシ

    8月15日に思うこと

    80年前の昭和20年8月15日、終戦の日だが、妻のおじいさんは、広島市から大野町というところに向かって歩いている時に、米軍機の機銃掃射攻撃に遭ったという。掃射の線は辛くも傍に外れ、無傷だった。米軍機の機銃は12.7ミリの弾丸を1秒に10発近く発射するようなシロモノ。要は機関銃だ。当たっていたら命はなかっただろう。そうなっていた場合、戦後生まれた妻のお母さんは存在せず、私は妻と出会うことはなかった。様々な偶然と幸運の結果を受けて、いま私の家族は存在している。

    妻のおじいさんは、工兵として招集されて、何度も戦地に送られた。生前、下関にドライブに出掛けた時に、関門海峡を眺めながら「ここを通って4回出征したよ。」と呟いていた。ガダルカナルにも行かれている。6隻の輸送船団で南方海域を進む途中で米潜水艦の攻撃を受けて、4隻が沈没したと言っていた。おじいさんは沈められなかった2隻に乗っていたため命を拾った。おじいさんの部隊は昭和20年には内地に引き上げていたため、8月6日、おじいさんは広島にいた。爆心地からはやや離れた広島駅付近にいて無事だった。場所が数キロ違ったら、これまた命はなかっただろう。

    8年前、100歳で亡くなった妻のおじいさんは、原爆投下後の広島で相当なものを目撃されていたことと思う。だが、妻もそのお母さんも当時の話はおじいさんからほとんど聞かされていないし、尋ねてもいない。これは広島の家族のあるあるだ。原爆後の被災地の惨状がどのようなものか、最もイメージしやすいのは、原爆資料館に収蔵、展示されている被爆者が描いた絵だ。全身焼けただれた人々が体からぶら下がる皮膚を引きずって亡霊のように長蛇の列を作って歩き、力尽きて死んでいった。そういう光景を見た人は今の言葉で言うPTSDみたいなものだろう。辛い記憶は尋ねないのがどこの家族も暗黙のマナーみたいな感じだったように思える。

    広島というところはすさまじいところだ。というより、戦争の凄まじさを痛感させられるところと言うべきか。広島でうちも子どもたちが通っていた小学校は、爆心地から3キロほど離れた己斐という場所にあり、被爆直後、救護所となった歴史がある。多くの被爆者が運び込まれ、そしてここで息絶えた。埋葬や火葬が間に合わず、当時、遺体は一時的には校庭に埋められたという。戦後、改めて掘り起こされてきちんと埋葬されたのだが、すさまじいのは、その数だ。遺体は8000人分だったという。8千。なんという数だろう。ただそれでも原爆で亡くなった総数のごく一部に過ぎない。かつて八千人の遺体が埋めれた学校にうちの子どもたちは通い、その校庭で運動会もしていたわけだ。うちの子達が通っている時に校庭に改めて新たな慰霊碑が設置されて、8月6日の式典の日にテレビでも中継された。

    ちなみに妻のおじいさんは、原爆のあと、少し落ち着いたため、8月15日、大野町にあった自分の部隊の駐屯地に向かって歩いていた。その途中で機銃掃射に遭った。終戦の日だが、まだ米軍の攻撃は行われていたわけだ。他にももっとあったのだろうが、私が聞いた範囲だけでも、機銃掃射、潜水艦攻撃、原爆、おじいさんが3つを偶然、生き延びた結果が、今の私の家族の存在につながっている。おじいさんのような幸運を拾えず、命を落とした人は大量にいたはずだ。戦争がなければ、そういう人たちの子孫も私の周囲で、私と同じような家族を持っていたのかもしれない。でも戦争によってその可能性から抹消されてしまった「未来」が、膨大にあったことになる。

    戦争がもたらす惨禍は凄まじく大きい。だからこそ、私たちは戦争というものをよく知り、学ばなければならない。ただ、戦争という主語はとても大きい。そもそも人間の歴史というもののかなりの部分は戦争が占めている。それぞれの戦争に原因や理由があり、軍隊や兵器には、編成の理由や開発に注ぎ込まれた技術や用兵理念、戦術の理屈がある。なぜアメリカ兵が持っているアサルトライフルはM-16なのか?それはどういう銃なのか?みたいなことにも全て経緯や理由がある。戦争というのは詰まるところ、いかに効率的に相手より優位に敵兵を殺して、敵国を屈服させるか、ということになる。その究極的到達点の一つが原爆など核兵器ということになる。ただ戦争のあり方は時代によって常に変わる。サイバー攻撃、自爆テロ、ドローン、そしてAIなど、基本、何でもありなのだ。平和を考えるためには、戦争と軍事を知る必要があると思っている。

    というような重い長文を書いてみた8月15日の朝だが、それはなぜかというと、骨折した長女を盆休み明けの整形外科に連れてきて、予想通り、かれこれ2時間以上待合室で待たされているからだ。(笑)

    傷が付くので手術は・・・という医師の意見だったが、盆休み前に撮ったレントゲン写真によると、自然治癒はちょっと難しいかも?という話だった。何より、10日も右腕を吊って動かせない状況に長女は飽き飽きしている。で、ようやく盆休み明けの今日の診察。結果はやはり、このままでも治らないことはないが、あと2週間くらいは腕を動かさず安静、みたいな診立てで、長女は手術を選択。来週手術を受けることに。それほど難しい手術ではないが、全身麻酔をすることもあり、入院するということ。やはり骨折とは結構大事で大変だ。それを考えれば、何より交通事故に遭わないことが一番だ。それは今回、長女も痛切に学んだだろう。

    ちなみに長女の原付は、修理の見積もりが中古車を買うより高くつくようで、廃車になる方向。ただ原付というの乗り物は、今後メーカーが生産を止める方向なので、代わりの原付を新たに買うという話にもならなそう。では、彼女が現在バイトの足として日常的に使ってきたバイクの代わりはどうするか?というのは考えないといけない。いっそ中型免許を取って、私の125CCを使った方がいいのではないかと思っているが、どうだろう?

    書き手

    海秋紗

    海秋紗

    神奈川県葉山町/57歳

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