スペイシー125
東京で友人に譲っていただいた原付バイク、スペイシー125。乗る機会が少なすぎて、どうしようかと思案していた。 体はひとつ...

のちの野良
ノチノノラ
2025年10月26日

お祭りを応援するようになったきっかけは、およそ20年前に遡ります。
当時、バックパッカーとして世界を旅していた私は、エルサレムの宿で大阪出身の男性と出会い、友人になりました。
彼の地元・高石市には「だんじり祭り」がありましたが、少子高齢化の影響で担い手が減り、ついには祭りができなくなってしまったそうです。
彼らは泣く泣く「だんじり」を手放し、代わりに子ども向けの「花車」を購入したと話してくれました。

しかし数年後、町の未来を案じた有志の方々が再び立ち上がりました。
お金を出し合い、岸和田から中古のだんじりを買い戻して「もう一度祭りをやろう」と呼びかけたところ、若者たちが町に戻ってきたのです。
だんじりを引くために人が帰ってきて、再び祭りが開かれるようになりました。
町のコミュニケーションが活発になり、経済も動き出したそうです。

祭りの電飾で電気屋さんが潤い、晴れ舞台に向けて美容院が賑わい、刺繍屋さんの仕事が増える。
だんじりの車輪に使うベアリング工場まで活気づき、飲食店にもお客さんが入る。
その話を聞いて、私は「祭りには人をつなぎ直す力がある」と深く感じました。

実際に私もその後、だんじり祭りに「引き手のひとり」として参加させてもらいました。
驚いたのは、あれほど全力で祭りを楽しんでいるのに、それを記録する人がいなかったことです。
「頑張った、今年もいい祭りだった」と声を掛け合うけれど、残された写真は運動会の集合写真のような全体カットばかり。
個人の表情や汗、息づかいが写っていない。そのことがとても印象に残りました。

そこで翌年からは、私はカメラを持って祭りに参加するようになりました。担ぎ手としてではなく、裏方にまわり、地元の人たちが主役として輝けるようにサポートする立場になりました。動けなくなった人の代わりに代打で曳行に参加することはありますが、基本的には「記録係」として、全ての参加者が記録に残るように写真を撮ることを意識しました。

小学生、中学生、高校生——法被を着せた子供と一緒に歩くお母さん、泉州のおっさん。

みんなの姿をきちんと残すことが、自分にできる役割だと思って関わってきました。写真データをみんなに渡すことで、「また来年も来てね」と言ってもらえる関係が自然とでき、自分もコミュニティの一員になれた気がしました。

最初に参加したのが2012年です。それからずっと高石市取石地区の土生地域との関係を続けてきました。

現在、ご縁があって能登・富来地区に関わるようになりました。
能登半島地震の直後、TOGISO再建のために工事会社を探したのですが、どこも職人不足で見つからず途方にくれていました。

その時に大阪から能登まで駆けつけて工事をしてくれたのがエルサレムで出会った彼の会社でした。祭りがあったからこそ年に1度は合う仲になっていたことも無関係ではないと思います。本当に困っている時に職人を連れてきてくれて突貫工事をしてくれたことを、今でも本当にありがたく思っています。

将来においても彼が困るようなことは無さそうですが、こちらができることがあれば喜んで恩返しをしたいと考えています。