盛岡あさんぽ
無事に秋田到着。着いて早々親が溜めた洗濯物ををやっつける(じゃないとわが家のキャンプ3日分汗まみれの洗濯物が回せないので...
王様の耳は
オオサマノミミハ
2025年10月1日
ソフィーさんの日記にあった〈「待つ」ということ(鷲田清一)〉を図書館で借りてみた。(ぐっさんさんの「ネガティブケイパビリティ」に関する本は人気があるようで、どれも長い予約待ちとなっていた。)
しょっぱなから難しくて挫けそうになったけど、とにかく最後まで読んでみることにした。
気になった部分を抜粋してメモ。
〈現在は膠着状態であるが、それは状況がたしかに「よろしくない」のだけど、その「よろしくない」加減がまだ生ぬるいということである。残念だが今はまだ手が出せない。だから自然の展開を待つしかない。〉
〈相手が追いつめられるまで待つ、つまりは、もう切り抜けられないところまで困ってもらわないと事態は動かないということなのだろう。こういったケースはじっさいのところ少なからずあるもので、そのときには「いかに腹を据えて事態を見守っていくか」が肝要である〉
〈たしかに、傍目には、ときにうっちゃっているとも気がないとも映り、ときになげやりとも不誠実とも映る。が、事態に真正面から向きあえば「妄想と正論との激突」か緊迫した膠着にしかならない、そこを、あえて事の本質にふれないで、焦点をずらしながら、「適度のウソやごまかし」でかわす、あるいはしのぐというのが、援助者が長い経験のなかで身につけた対応である。〉
〈「あえて本質に触れない会話を続けていける」ということが、援助のこつである。このとき、「鈍感な善意やゆとりを欠いた一途さは有害なだけである」。〉
まさに、老いた親に対し自分がモヤモヤしていた気持ちに一石を投じてもらった気がした。
親は変わらない。だから自分が何かが起こるまで待つしかない。本の中の言葉を借りると、「救急車(か霊柩車)」が来るようなタイミングまで、腹を括って待つ。そしてそれも“ケア”のひとつでもあるということ。
曖昧さ耐性を高めて待つのは私だ。
今日もこの商店にある石に救われた。
追記、 浮記さんが新宿センタービルのローソンで働いていたとのこと!私は2011年までアイランドタワーで働いていて、毎朝そのローソンでお昼や飲み物を買っていた。もしかしたら会っていたかもと思うとドキドキする。