
保育園お迎えまでのあいだに。
家事をしながらわたしのテッパンPodcast、イシュミナとRAMを聴く。RAMはかんなり久しぶりだったのだけど冒頭から例のGEZANの話があった。しかしこれも語るに体力がいるとの判断でちゃんとした話は後半に。このニュースをしったとき、我が家も夫と夜な夜な語りあっていた。日付をみると7/29、どんなに話しても昇華できるわけないこの問題を、今日RAMを聴いた機に日記に残そうと思えた。
ずるいとは解っているけれど夫婦ともどもRAMのおふたりと同じく、もともとGEZANについては否定的だった。だけど全否定していないのもおふたりと同じで確かに圧倒的なものがあったし、亡くなってしまったOLAibiさんがGEZANのサポートにはいったときなどは、ちょっと観てみたいとすら思っていた。観たことがないくせに!と言われてしまえばそうなんだけれど、観たら衝撃をうけるのは解っていたし敢えて避けていたというのもある。あと、音楽に政治をもちこむなとも一切思っていない。
ただやっぱり感覚的に信じられなかったし、なにか体感して、信じてしまったときの自分がこわかった。
そしてGEZANがどうこうではなく、いつまでたってもデモにたいして懐疑的(行こうと思えばいつでも行けるくらい共感している)なこの言語化できない感情について、おふたりがけっこう当たり前にことばにしていて驚いた。思えばわたしが選挙のタイミングのRAMを聴いていた時に感じた、冷たさとか当事者意識の低さにもつながっている、いまさら一貫したスタンスなのだときづく。
暴力がこわい。異様な熱がこわい。
今回のことは、自分の言葉でいうとただただ「サイアク」でしかないことだった。
でもだからと言って「一生表舞台にたつな」というのは失敗したひとに対しての救いがなさすぎるのではないかという話になる。
かと言って、彼が言っていた・やっていたことと、あまりにも乖離がありすぎる、と言われたら、ある意味表裏一体なのではないかという話で。
平和と暴力は対極にあるはずなのに、意外と隣り合わせにある。だから群衆を率いることは、人々に呼びかけることはとてもすばらしいこと、そしてこの時代その手段以外で一体なにができるのかというところまで来ているとわかっていても、このニュースをきっかけに、やっぱり人間はもうオシマイなんじゃないかと極論にいたってしまう自分がいる。
個人的に妊娠・出産を経て、ものすんごくprimitiveな思考の扉があいたきがした。
どんなに医学が発展しても、これから人工子宮が登場しようと、現時点で人間の進化発展のなかでひときわprimitiveなもので、まだこんな誕生をしているわたし達はやっぱりどうあがいても動物なのだと思う。
そう思ったとたん、もちろん個性はあれど、なんもかんも平等にしようということ自体ムリな話に思えてくる。つまり人々には特徴がありすぎるということについて。だから諦めようという話ではないし、誰しもが自分らしく生きられる社会になってほしいけれど、いまの社会の動きは当たり前なようで、ものすごくイビツに感じる(政治家のセンスのなさや、政治家を選ばない我々のせいでもある)。そのイビツな流れは、動物らしさを悪い意味で失って、人間とすら言い難い生物になっているいまだからこそ正しく見えて、でも人間のprimitiveな部分はまだまだ全然残っているから厄介だ。淘汰や排除という選択肢がなくなったうえで、わたし達はこれからどういうかたちで平和をめざしていけばいいのだろう。
あきらめたくないけれど、今回の件で、もちろん個人の問題なのだけど、光と思えるものにすらこういった構造があるというのがはっきり解ってしまった。人間はオシマイだ!と主語デカにせず、だけどできることはなんだろう、そう7/29から考えていた。
ひとの話を聞いて立ち戻れたこと、ひとりひとりが自分に誠実でいること。自分の中にある光をみつけること。
イシュミナで野島さんが紹介していた“すぐに手に入る幸福は後悔につながりやすい”ってホント、自分はこんなにも毎日ぐちぐち言っている割には何事もあまり後悔していないという自負があるけれど、やっぱりすぐに手に入る幸福は“疲れる”とさいきん思う。結局グッタリ。まあ、それが後悔、ということなのだろうか。
すべてはバランスなので、ほんとうにからだとこころが喜ぶことだけをしていても、ある夜満月をみたタイミングなんかで頭がおかしくなるかもしれない。だから多少ジャンクなものとか、鋭利なものに触れていたいときもあれど、やっぱり全体的にわたし達、刺激がおおすぎるんじゃないか?
ひとりひとりが動物であることを自覚しながら、バランスよく活動して、自分のなかにある光の温度にこころが揺れ動く、そんな時間にみをまかせていれば、勝手に平和がおどずれる。だったら、いいのにな。




