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    ピーエス

    千差万別だが一様に尊い

    水曜、ひとつ仕事を片付けて電車に飛び乗り山梨の現場へ。
    弊社案件の中では大きめのサイズ。宿泊施設の現場。朝、家を出るときに現場付近の最高気温を確認したら横浜と同じくらいだったので特に防寒装備せずに行ったのだが、16時ころから急速に気温が下がって凍えながら現場をあとにする。

    sakiponkoさん、海秋紗さん、かきぬまさんがそれぞれ第1子が生まれた頃のことを書いていて、つられて私も色々と思い出したので書いてみる。

    うちはたぶん皆さんより結婚が遅かったこともあり、子を持つ、ということに色々な覚悟と能動的に現代医学の恩恵を受ける必要があった。それもまた一筋縄では行かず、何度も「本当に子供がほしいのか」というような自問をした。その時の自答としてはあくまで妻が第一である、ということ。そんな紆余曲折の末に授かった我が子。出産予定日は7月19日ですね、と私の誕生日を告げられたときにはその偶然に心が踊った。妻のお腹もずいぶん大きくなって、そろそろ本腰入れて色々と準備をしないとね、と言っていた7月19日の5週間前の夜半過ぎ。お腹が痛い、と妻が言い、どうにも治まる気配がないので病院に連絡したところいつも診てくださっている先生がたまたま当直で病院にいらして「可能ならこちらに来れますか?」と。もともと罹りつけであったことと妻の実家から近いことで出産後も見越して通っていたその病院は我が家から約35km。しかし悩んでいてもどうにもならないので直ぐに車を用意して、可能な限り早く、でも絶対に事故はできないという極度の緊張とともに車を走らせた。家から30分ほどで着いたのは後にも先にもあの時だけだ。

    ほとんど真っ暗な病院の待合室で「ここでお待ち下さい」と言われ妻だけ診察室へ。40~50分待ったか、たくさんの書類を持って先生が現れ、処置の説明を矢継ぎ早にされながら、こことここにサインしてください、と迫られる。緊急帝王切開。妻があのキャスター付きのベッドでエレベーターに乗せられて行くのを見送り、また1人で待つ。空は白み始めていた。

    そのエレベーターから保育器に入ったボーイが。看護師さんに「お父さんですよー」なんて言われたような気がするが正直あまり細かい記憶がない。写真撮りますか?と聞かれて写真を撮ったように思う。現実味がないまま「妻は?」と聞くと「この機に処置しておくべき事象」のため別のオペに移行しているという説明。妻が戻ってこないままに院内は少しずつ人の気配が増え始め、6時少し前に近くに住む義父と義母に連絡して来てもらった。妻が戻ってきたのは確か7時過ぎじゃなかったか。そこでようやく本当に安堵した。

    自発呼吸もできているようなので少し様子見て大丈夫そうなら一緒に帰られますか?と言っていたのも束の間、呼吸が不意に止まるのでNICUにしばらく入ったほうがいい、という事に。

    結局、彼は4週間ほどNICUに居て、退院後も2ヶ月ほど妻と実家にいたのだった。徳島の現場へ行ってから飛行機で羽田に戻り、その足でNICUに行ったりもした。生後3ヶ月ころから一緒に暮らし始めて、3時間続けて眠れれば良い方という状態が暫く続いたりしたけど最初の3ヶ月は一緒に暮らしてもいないので皆さんほどの苦労はしていないのかも…。

    しかし皆さん「子が生まれた」と、書いてしまえばこの一言にまつわる物語のなんと壮大なことか。十人十色、という言葉では言い表せない深みがそれぞれあって、それ故に尊い。

    書き手

    田畠隆志

    田畠隆志

    神奈川県横浜市/47歳

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