全力の自分を全力で褒めて
勤務中何度か立ち止まり「全力だ」と思いな...
島縞
シマシマ
2025年5月18日
今朝は、義父のところへ行く約束があった。やることなすこと何となく時間をかけていて、いっこうに準備が整わない。9時を過ぎた頃に、腹をくくって電話をすれば作業に足りないものがあるから、今日は来なくていいとのこと。それを聞いたら、ものすごく心が軽くなって、あっという間に約束していた甥っ子のところに遊びに出かけた。
出発前、ネメシアのたくさんのつぼみが開いていて、気持ちを和ませてくれた。
義父のおうちに到着するには、私にとっての難関を突破する必要があった。その難関は、いつまで経っても私を震え上がらせる存在。仕事の時は割り切って突破するしかなく、仕事でなければ行くことがたちまち困難となった。まだまだ克服するには難しそうな浅い呼吸から出た小さなため息と、安堵のため息。
こんな嫌を感じた日は、いたるところにそれが付きまとう。
買い物や図書館の帰り、ひととのやり取りや、いつもやっていることの、ほんの些細な引っかかり。
そうして、そんな日はやっぱり何かある。
いつも注意していることなのに、今日は何とはなしにやったことが、やってしまった、になる。これは、慣れてしまった物事により一層気をつけるように、ってことなのかもしれない。あまり引きずらないようにしよう。
夜、甥っ子宅でご馳走になって帰れば、玄関前に中ぐらいのイエグモ。ふたりでヒッとちいさな悲鳴をあげて、そっと玄関ドアを開けて中に入る。
気を引き締めて、引きずらないこと。
暗い話で今日を閉じたくなくて、さらに本の話。
図書館に行って、たくさんある銀色夏生さんの本から、エッセイ、詩集、つれづれノートを借りた。そうだ、つれづれノートだよ。
妹に自分年表を作っていると話したら本気で気持ち悪がられた。自己主張はしっかりの現実主義、私とは真反対。そんな妹に、私って銀色夏生読んでいたよね、って話したら「そうだね、小学生の頃から読んでたよね。あなた、谷川史子さんが好きだったから、その人が読んでるって知って、読み始めたと思うよ」とのこと。本人よりも、母よりも、年の近い姉妹が一番見ているものなのかもしれない。
妹とは、子どもの頃は新しい服はお盆時期にお揃いの色違いで買ってもらっていたこと、小さい頃は母が服を手作りしてくれていたこと、母は本当に料理が苦手で塩コショウ味のおかずばかりだったこと、それでもおやつは手作りしてくれていたことなんかを思い出して話した。私は、料理関係はほとんど覚えていなかったのだけれども、妹はしょっちゅう手伝っていたからよく覚えていた。
地元の行事で使ったお重やそれを包んだ風呂敷の柄、母が編んでくれたカーディガンの赤、色々と思い出していたら、忙しくてほっとかれていた中にも、しっかりと愛情を注いでもらっていたことに気づく。
必死に働いていた両親と、聞き分けよく育った子どもたち。色んな問題や葛藤はあったけれど、みんな何とか生きている。両親と同じように必死に働いていた私は、娘にも同じようにするところだった。いや、そうしていた。それに気づけて良かったと思う。
そうして読み始めたつれづれノートに、「赤毛のアン」の言葉を見つけて、そう言えば赤毛のアンシリーズもよく読んでいたことを思い出した。海外のテレビドラマもあって、ビデオに録画してしょっちゅう見ていた気がする。これは、シャーロック・ホームズも然りだ。
小学生の頃に出会ってから、事あるごとに読んでいたのはピーター・パンだった。本だけでなく、テレビアニメはかかさなかったし、ディズニーのビデオも買って持っていた。好きな物語は、活字だけでなく映像でも観たい。
そんな昔と今を結びつけてくれた銀色夏生さんを手元に置いておきたくて本屋さんに出かけたら、4月にエッセイとつれづれノートの最新作が発売されているのが丁度並んでおいてあった。
久しぶりに雑誌もじっくり読みたくて、色んなジャンルを見定めていたら、うかたまがあんこ特集。お友だちに振る舞えるくらいにアレンジ出来たらいいと思って、そちらも購入した。
読書欲に拍車がかかる。