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    Sophy's philosophy

    Sophy's philosophy
    ソフィーズフィロソフィ

    pool side

    日本で地元の市民プールに連れて行ったとき、滑り台の登るところには監視員がひとりつき、子どもがひとりずつ滑り終えて、そのエリアから出るまでは次の子は登れないように、きっちり指導されていた。

    一度ソフィが腹ばいで滑ろうと試みようもんなら、近くで見ていた保護者(わたし)のほうも確認しながら「ダメです」と言われた。わたしは、あらやっちゃったと思った。当人のソフィはケロッとして、そのあとは「ルール」を守って「正しい」お尻のフォームでまた何度も滑った。危なくないけど、たのしかったらいいな。

    しかしルールがここまで徹底されていると、「危険だから」という理由だけで、試すことすらできない。これじゃあ子どもたちは、自分で試しながら、何が本当に危険か自分で判断する基準を、そのさじ加減を、知ることができない。

    いま私たちが滞在しているビーチに併設されているプールでは、滑り台だけを監視するお兄ちゃんは、いない。大きなプールがふたつあって、その間にあるスペースでたんなる椅子に座ってだべっているお兄ちゃんたちがひとりかふたり、いるだけだ。

    子どもたちは、滑り台の階段に自由に列を作って、順番に登り、好きなタイミングで滑り降りる。もちろん、腹ばいだっていいし、ビート板でスライドしたっていい。落ちたすぐ先に、誰かがいてすごい水しぶきを浴びてる。でも、痛いとか怪我したとかは、誰も言ってない。子どもたちなりに、危険度を察知しながら、真下に誰かがいれば、泳ぎ去るのを待つか、「どいてー」と声を掛ける。これで、いいんじゃないかと思う。

    為末大が、「日本は、何かあったらどうするんだ」のような空気がある、というようなことを言っていて、なるほどと思ったことがある。責任の所在が明らかでないから、もしくは、敢えて明らかにしないことで、何もしない、または逆にルールを細かく設定することで何も起きないようにしている、という構造になってるのかな、と思う。

    イタリアなんて、政府機関のホームページ見たって大した情報は載ってないし、人に聞いたところでみんな違うことを言う。ルールがないから、当事者は周りに助けを求めながら、「なんとかする」、これが毎日なのだ。

    ルールがなくても、ルールが厳しくても、どっちも、疲れるね。

    書き手

    sophy

    sophy

    イタリア・ベルガモ/45歳

    ©30YEARS ARCADE