休日のこと
せっかくの休みに、家でダラダラ過ごすのは...
Sophy's philosophy
ソフィーズフィロソフィ
2025年3月9日
風早草子さんの折り鶴問題、とても興味深く読んだ。広島の平和を祈る千羽鶴を日本人の誰しもが観たことがあるから、そこに魂が宿っているという感覚を覚えるんだろうなぁ、と率直に思った。
「もちろん折りたい人が折るのまで止めないが、折りたくない人にノルマを課すようなものではない。」というところ、わたしも同感。やりたい人がやればよいのに、やりたくない人にノルマを課す、っていうのは、やっぱり日本特有な同調圧力のしわざなんだろうか。
そもそも「なぜ鶴を折るか」というところで純粋に内部的な動機ではなくて、外部圧力から来てるんだろう。たとえば、うちだけナイのはヤバい。とか、他がどう思うか。とかの懸念が持つ重力が相当強いんじゃないかと思う。いままでの慣習を変えることはしたくない、もしくは、自分からは変更には触れないとかは、思考停止そのもの。それは、なんでだろう?やっぱり、同質性が極めて高い社会だからか。
やりたい人がいないので、ノルマで乗り切らなきゃいけない(お給料をもらう仕事は別として、ボランティアという立てつけ)っていう時点で、答えは見えている。その行為を求めているのは、人っていうより「空気」だ、ってこと。
折りたい人が折る鶴だから、プラスの魂が宿ると思うんだけど。と、いまだに魂とか測れないもので考えてる時点で、わたしはやっぱり日本で生まれ育っているなあ。
そうそう、折り紙は、イタリアでは特別なこととして捉えられている。ORIGAMIって言えば通じるし、なにもインストラクションなしで鶴を美しく折れるところを見せると、イタリア人の全員がめちゃくちゃ喜んで褒めてくれる。手先の細かい動きを練習する遊びとして、リスペクトされていることだ。
だから、日本で小さい頃からそういう機会に恵まれたことにとても感謝している。私の手先が器用で細かい作業もへっちゃらなのは、折り紙の貢献もかなりデカいと思う。
夫のお姉さんが高校で数学の教師をしているんだけど、土曜日の1時間、興味がある子が集まって鶴を折る会を開いているらしい。たしか、どこかに寄付するとか言っていたかな。「なんで鶴を折るか」っていう核心を聞き流しちゃったので、また聞いてみよう。
イタリアの高校生が折った鶴↓
イタリア・ベルガモ/45歳