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    Sophy's philosophy

    Sophy's philosophy
    ソフィーズフィロソフィ

    the power of waiting

    王様の耳はさんの日記を読んで、その通りだなと思った。

    こないだ聞いた山口周さんのVoicyで「待つことの可能性」について話されていたことを思い出した。要約すると、辛い宙ぶらりんの状態に耐えられるかどうかが肝。何か合理的に判断できないときは、宙ぶらりんに耐えるほうがよい。というような内容だった。例として、イギリス外交の姿勢や、徳川家康の虎視眈々とした振る舞いなどを挙げられていた。

    好きな本で、「待つ」ということ(鷲田清一)のなかにこのようなことが書かれているのも着想的に繋がってきた。

    待つ側にいわば諦めをともなうある確信がある。それは、自分のほうが変わらねば、関係もまた変わらないだろうという確信。

    —-

    諦めを伴いながらも確信があるとは?

    確信があるからこそ、待てるのだろうか。そして、そんな自身の状態に、可能性を見出すことができるんだろうか。いや、できるできないじゃなくて、確信して待ち、そこに可能性を見いだすのだろう。するかしないか、なのだ。

    土曜日は朝から夫がソフィをプールに、夕方には公園にと連れ出してくれたので、じっくり自分に向き合う時間が取れた。久しぶりに夫の参画を有難いと思えた。いま「夫のヘルプ」と書こうとして、いや違うと感じた自分。助けではなく、本来一緒に取り組むことだから。

    最近の夫は、鬱っぽい傾向がぶり返してきていて心配していた。家族の集まりにも参加しなかったりで、夫のお兄ちゃんに相談したらすぐに「一回話すよ」とヘルプしてくれた。これは彼からしたら、きっとヘルプではなく当たり前のことなんだろう。だって家族だから。

    夫は年に数回、鬱傾向になるので毎度どうしたものかと思いながら、そっとしておく。わたしが巻き込まれて鬱になったらソフィが困るし、自分としてもイタリアで鬱を乗り越えられる想像がつかない。だから、そうならないように予防をしている。予防と言っても、あんまり考え込まないようにしているくらいだけれど。

    まあ仕方ないよね、あはは、と待ってみよう。

    こないだ行ったコモ湖、レッコからの眺め。自然の中できれいな空気を吸えば、まぁいっか、と頬がほころぶ。

    書き手

    sophy

    sophy

    イタリア・ベルガモ/46歳

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