秋の声
満月。 仕事帰り、駅から自転車で家に帰る道中、虫の声があふれていた。ほとんどアオマツムシの大音量だが、コオロギの声も少し...

風早草子
カザハヤソウシ
2024年6月6日

のっぽではないが、それなりに大きな古時計を実家から回収してきた。両親が結婚してすぐに買ったと聞いている。子どもの頃から家ではこの時計の振り子の「カチッ、カチッ」という音が常に聞こえていた。
しかし、年老いた母がこのゼンマイ式時計の維持に音を上げ、兄が電池式の時計を設置したため、不要となった。父が亡くなり2年。父との思い出の時計も捨て去り、母がその後を追いつつある。
月曜日、仕事を休んで母の通院の付き添いと、諸々の用事の手伝いにいった。仕事が山場を迎え、休むのは厳しいが仕方ない。
母は元々難しくて自分にとって苦手な人だったが、パーキンソン病などを患う父の介護があった5年ほど、兄とともに非常に苦労した。ヘルパーやデイサービスなど、母の苦労を緩和する提案を懸命にしたが、「嫌っ!」という理由で頑なに拒み、自滅していった。案の定、転倒して父が怪我をしたり、母も体調崩したり。そうなってようやく介護サービスのレベルを上げるという敗戦処理の連続。しかも、実家に行けば支離滅裂な言葉を浴びせられる。休日わざわざ世話に行って、メンタル削られるのはキツイ。キツさをシェアできる兄の存在をこれほどありがたく感じたのは初めてだった。我が家の切り札である子どもたちの力も借りた。でも陽気で無邪気なうちの双子でも、母の毒は中和しきれなかった。
この頃、日経ビジネスオンラインに松浦晋也さんというノンフィクション作家が自身の介護経験を綴った「介護生活敗戦記」という連載をしていた。身につまされながら読んでいた。
父の介護は、当然の結末だが、最後は母が一人でできなくなり、老健、療養型病院と受け入れ先が移っていった。追い込まれるような状況で入った施設で病気が急激に悪化し、父の最後は思いの外早くやってきた。最晩年のQOLをもっと良くしてやれるやり方はあったと思っているが、母が受け入れない以上、できなかった。仕方なかったと割り切っている。
それから2年、一人暮らしになった母は、息子たちの予想通り、いま認知機能が目に見えて低下しつつある。これもあらかじめ決まっている敗け戦だ。

母の重要な用事は眼鏡の新調。実は先週雨の日に外で転倒して救急搬送された。通りがかった人が心配して救急車を呼んでくれたが、骨折など深刻な怪我はなかった。ただ顔面を打ち、眼鏡が壊れてしまったのだ。
救急隊員から連絡を受けた兄から電話がかかってきたとき、私は鹿児島空港に着いたところで、病院へは兄が仕事を休んで向かった。けがの程度は大したことないと聞いていたので、兄には申し訳ないが、遠方にいて正直、ラッキーと思ってしまった。
今回の通院と買い物は妻が同行してくれて助かった。眼鏡を新調して、食品などを買って、仏壇の花を買って、墓参りをして、ミッションは終了。
先がどのくらいあるのかはわからないが、ここ数年の経験で感じているのは、もはや切り離して考えるしかない、ということ。たとえ、親であっても兄も私もそれぞれ家庭があり、育てなければならない子供たちがいる。できることには限りがある。
ケアマネさん、訪看さん、ヘルパーさんなどの力を借りて、できる範囲のことをやっていくしかない。そしてそれはきっと、母を十分に安心、満足させるようなケアにはならない。だが、私と兄にそれを超える献身を母に尽くす気持ちがない。
ゆえにこの先も私と兄は、あらかじめ決まっている敗戦の道を粛々と歩んでいくことになるのだろう。

神奈川県葉山町/58歳