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    風早草子

    風早草子
    カザハヤソウシ

    思い出あふれるランニング

    快晴で爽やかな陽気。絶好のランニング日和。今回は広島。さすがに地図アプリはいらない。目をつぶっても走れる。様々な場所で数多くの番組や企画を作り、ロケや中継をしたり。妻や子どもたちと遊んだりした場所も無数にあるし。街のあちこちにエピソードがありすぎて、記憶や思い出のフラッシュバックがすさまじい。(笑)書きたいことは無数にあるけど、とても書ききれない。

    とりあえず以前住んでいたマンションに向かって、ホテルから西へ。広島は中国山地から流れる太田川が平地に出ていくつもの支流に分かれて土砂を運んでできた三角州の街。たたら製鉄が盛んに行われた戦国時代以降のカンナ流しで川に流れた土砂で作られた部分が多いようで、現在の市街中心部の歴史は意外と浅いらしい。

    とりあえず私がいた頃はなかった新しいサッカースタジアムへ。街の中心部にとても立派なものができていた。昔はアストラムラインという新交通システムで延々山奥まで行くビッグアーチというスタジアムで、アクセスの悪さから評判が悪かったが、ここなら誰も文句はなかろう。サンフレッチェも一度、番組を作ったことがあり、密着取材していたな。初めてJ1からサンフレが陥落した時だ。Jリーグ発足当時からの優勝経験もあるチームがJ2に落ちたのは初めてで当時、結構話題になった。J1昇格を期す開幕からの戦いを追おう、という話になり、ディレクターとしては私が任命されたわけだ。スポーツもサッカーも専門ではないけど、開幕から結構な期間、サンフレ戦を取材して鳥栖とか新潟まで行った。サンフレがチームのテコ入れにブラジル代表のサンパイオを補強するというややチートな手を打ったことで、J2で開幕から無敵の10連勝みたいな展開になってしまい、ドキュメンタリー的には苦闘とか葛藤がないものになってしまったなー。(笑)でもチームにはユース出身の森崎兄弟とか駒野とか、若いタレントがいて見ているのは楽しかった。特に右サイドバックの駒野選手は私の一押しだった。豊富な運動量、そして強くて鋭く正確なロングクロス、私は「和製ロベルトカルロスだ!」と今すぐ日本代表に招集すべし!と勝手にワーワー言っていた。当時の日本代表の右サイドバックはガンバの加地という選手だったけど、まだ若くてj2だけど、私は駒野の方が上だと感じた。のちにジュビロに移籍し、日本代表にもなったけど、ワールドカップでPK外した戦犯みたいな扱いされてちょっと気の毒だったな。懐かしい。しかし、こういう駄文、無駄話を書き始めると、この日記はたぶん、永遠に終わらないな。(笑)

    スタジアムから見えるのは、我が家の子どもたちがみんな大好きだったファミリープールだ。何回行ったかわからない。家で水着を着て自転車で行って朝イチの開園と同時に入場して、子どもたちと一緒にずっと流れるプールを流れ続けていたなー。ゴーグルをつけて潜りながら子供と一緒に流れるのは気持ちよかった。大人気施設でこどもが溢れていた。そのため、午後になると明らかにプールの水が濁ってくる。(笑)休憩時間に食べる揚げたてのフライドポテトが美味しくて子供達が大好きだった。

    そして平和公園。

    私が広島に来て最初に手掛けたのは、その直前に亡くなっていた原田東岷さんという医師のドキュメンタリーだった。ケロイド治療などに尽力した形成外科の医師だが、エネルギッシュな方で核廃絶を訴える平和運動の様々な面倒ごとを引き受けていた人だ。ただ米ソ冷戦真っ只中、世界が核配備競争を繰り広げる中で、核廃絶を訴える声は蟷螂の斧みたいなものだった。そういう中で、足掻き、戦っていた人たちが広島にはたくさんいるのだ。原田医師が支援していたバーバラ・レイノルズ女史とか。原田医師は、ベトナム戦争の時、米軍が使用するナパーム弾で多くの子どもがケロイド被害を受けているという報に接し、激怒して単身ベトナムに渡ってケロイド被害を受けた子どもたちを広島に連れ帰って治療する、ということまでしていた。怒りというか衝動というか、何か行動せずにはいられなかったのだろう。治療のために連れ帰ったベトナムの子供の何人かは広島に残り、家族を作って暮らし続けていて、その一人に私も会った。彼はケロイドだけでなく空爆で両腕を失っていたが、広島で職に就き、結婚し子供が生まれたばかりで、原田医師に深く感謝していた。広島以外で原田医師の名を知る人はあまり多くないと思うが、そのような人々の足掻きが広島には積み重ねられている。去年のノーベル平和賞には感慨を感じざるを得なかった。

    そして私たちが7人で暮らしていたマンションに到着。広島市の西、己斐という町だ。予想外の2度目の広島転勤だったが、すぐに妻と行って2泊3日くらいの期間に家を決めて業務の引き継ぎもしないといけない、という状況で家探しには苦労した。このマンションはあまり新しくはないものの、とても清潔なのが気に入って決めた。玄関などに大量の鉢植えの観葉植物や花が飾られているのに、床には葉っぱや花殻は一切落ちていなくて床もピカピカ。住み込みで管理人をされていた高齢の女性の方が、毎日、とても丁寧に掃除と管理をされていた。親切で世話好きな方で、うちの子供たちは皆とても可愛がってもらっていた。長女は3年くらい前に広島に行った時にわざわざ会いに行っていた。お元気なら顔くらい見たかったが、不在だったよう。残念。

    帰路は国道2号戦を東に走る。太田川放水路にかかる旭橋。この橋を渡って放水路沿いを北に走るのが広島時代の私のランニングコースだった。懐かしいことが多すぎてややおセンチなランニング日記になってしまったが、この辺りにしておく。

    Screenshot

    広島土産は子供のリクエストにより、尾道ラーメンなど。ちょっとマニアックな牡蠣味噌ラー油に関するエピソードもあるのだけど、キリがないのでやめておこう。

    書き手

    海秋紗

    海秋紗

    神奈川県葉山町/57歳

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